大黒日記その12  九度山伝説

高野山に上る途中にひっそりと、九度山という無人駅がある。

空海が嵯峨天皇から高野山の地をたまわった際、参詣の玄関口とすべく、ここに伽藍を創建した。

讃岐から訪れた空海の母は女人禁制の高野山に入ることが許されず、この寺に逗留する。

そして空海は月に九度、母に会うために山を下りた。

こうした由来から、この地に九度山という名がついたのだという。

九度とは、回数というよりもそれだけ頻繁に、という意味を示しているのだろう。

それにしても、高野山から、慈尊院と呼ばれるその寺までは二十キロもの山道らしい。

「お大師様って・・・やっぱりすごい・・・」

この伝説を知って以後、私はますます空海に惹かれるようになっていった。

ひるがえって、いったい我が身はどうだろう。

車なら実家まで三十分弱。距離を検索してみると、ここからは十三キロ、と出た。あれ、思ったよりもかなり近い。

それなのに足を運ぶのは、父の命日を入れて月に三回ほど。日中外出しにくい私は、夜に小一時間様子を見にいくぐらいのものなのだ。

「迷惑をかけないように気をつけているから大丈夫」が口癖で、八十を過ぎてもこまごまと動き回っている。

初めて会う人には七十そこそこと間違われる。

帰り際には、つくりおきの総菜をいくつも持たせてくれる。

こんな母だから、と私はちょっと暢気すぎたのかもしれない。

思えば私が子どもの頃、学校も役所も土曜日は半ドンで、公務員の母が電車を乗り継いで帰宅するのはいつも三時ごろだった。

それでも次の日には、活発だった子ども会のイベントが待ち構えている。

毎月のお誕生会から遠足、きもだめし、運動会、そしてクリスマスにお餅つき。

準備に関われない分、当日は朝から片付けまで人一倍動く母だった。

子ども会がない日曜日には、一緒になにかしらを作っていた。

パン、ケーキ、摘んだよもぎで草餅、それから夏にはカルピスまで。

キャラメルを作った時は、赤や黄色のセロファンで包むのが楽しみで、枕元に並べて寝た。

そして翌朝。

母はまた、当たり前のように仕事へと出かけていった。

まだまだお母さんが家にいるのが普通だった時代。

母はいつ、疲れを癒やしていたのだろう。

ソロバンが得意で、私はふざけて「人間電卓やね」と言っていた。

だが、電卓どころかパソコンがどんどん導入されていき、職場でいたたまれない思いを味わってもいたようだ。

無事に定年を迎えた日の、混じりけのないうれしそうな母の顔を覚えている。

今でも、自分から電話をかけてくることは滅多にない。

でも冷凍庫にはいつも、私たち家族が好きな銘柄のアイスクリームがぎっしりと入っている。

「こんなに買ってどうするの」と、私はずっとたしなめてばかりいた。

が、やはり暢気が過ぎたようだ。

今やっと、その理由に気がついた。

ちょうどこれからはどんどん暑くなる季節。

アイスクリームを食べに、夜、実家に車を走らせよう。

月に九度はちょっと食べ過ぎだから、まずは週一、四度山を目指して。

そしてスプーン片手に、母の話を少しずつ聴いていこうと思う。

子どもの頃にあった戦争のこと、がんばった仕事のこと、亡き父との思い出———-。

人は誰もが、自分だけの物語を綴りながら生きている。

そしてその物語を聴いてもらいたい、そのまま受け止めてほしい、と心の奥で願っているものだ。

「いろいろあったけど、いい人生だったね」

誰かとこう分かち合えたなら、その物語はきっとハッピーエンドで閉じることだろう。

母が語り、私が耳を傾けるには、今が最高で最後のタイミングなのかもしれない。

晩年の母のもとへ、月に何度も下山して通った空海。

かの人は、母のそばでどのような時間を過ごしていたんだろう、とふと思う。

きっと静かに母の物語に聴き入っていたにちがいない。「超人」としてではなく、ひとりの息子として。

私は勝手に伝説をふくらませ、そんなふうに「人間・空海」に思いを馳せている。