750年を隔てての出会い

 

鼓阪小学校

本年の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」をご覧になっていますか。主人公北条義時の最愛の息子である北条泰時は名君のほまれ高く、初めての武家法である御成敗式目を制定した第三代執権です。御成敗式目五十一ケ条は武士階級の社会規範や通念に基づき、武士たちが皆得心できる道理を中心に据えてつくられたと言われています。「名月の出づるや五十一カ条」と芭蕉に詠まれたように、鎌倉時代のみならず江戸時代に至るまでその精神は受け継がれました。武士の法律の手本と尊ばれた上、寺子屋の教材にもされるほど、広く庶民に影響を与え続けたのです。

その泰時が多大な薫陶を受けた人物が、明恵(みょうえ)上人でした。明恵上人は華厳宗中興の祖で、無私無欲にして厳しく戒律を保った一生不犯の清僧としても著名です。そして明恵上人を師と仰ぐ泰時は頻繁に交流を重ねて教えを請い、それを自らの治世に生かしました。

明恵上人の教えは「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」という七文字に凝縮されています。「人は阿留辺幾夜宇和と云ふ七文字を持つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背く故に、一切悪なり」

臨床心理学者の河合隼雄は、名著「明恵 夢を生きる」の中で次のように解説しています。『明恵が「あるべきやうに」とせずに「あるべきやうは」としていることは、「あるべきやうに」生きるというのではなく、時により事により、その時その場において「あるべきやうは何か」という問いかけを行い、その答えを生きようとする、きわめて実存的な生き方を提唱しているように思われます』。公正公平さや人間味が条文にあふれていると評される御成敗式目。この制定に携わった時、泰時は師の教えのとおり幾度も問いかけを重ねながら、言葉を紡いでいったにちがいありません。

「阿留辺幾夜宇和」は、いかに生きるべきかの答えを私達一人ひとりの心に求めています。自らの心を信じて自律的に問いかけを繰り返すこと。生きる上での確かな指針となり、ときに厳しくときに優しく私達を導いてくれる七文字。やがて私達の心と行動があるべきように正されてゆく、心の処方箋ともいえる教え。それが「阿留辺幾夜宇和」ではないかと思うのです。

明恵上人は一二〇七年、三十五歳のときに東大寺尊勝院の学頭に任命されています。尊勝院は東大寺の北西にあり、華厳教学を究める道場として栄えました。

そして明治時代、その尊勝院の跡地に移転してきたのが私の母校鼓阪小学校です。私が学んだまさにその場所で、かつて明恵上人が華厳宗の研鑽に励んでおられたということを最近になって知り、遠い名僧が一気に身近な存在となりました。七百五十年の時を隔てての邂逅に深い感慨を覚えつつ、あらためて身の引き締まる思いがいたします。