空海寺の沿革
開基は空海。華厳宗大本山東大寺の末寺である。八宗兼学の伝統により、華厳宗と真言宗の二宗を受け継いでいる。唐から帰朝した空海が草庵を営み、自ら彫刻した秘仏「阿那地蔵尊」を堂内の石窟に安置、本尊としたのが寺の起こりとされている。 境内に東大寺の歴代僧侶と寺族の墓がある。
(注)八宗兼学:南都六宗である華厳、法相、倶舎、三論、律、成実の六宗に、真言宗、天台宗を合せた八宗を兼ねて学ぶこと。転じて、一宗一派にかたよらず全ての仏教思想を学び取る学問的態度を指す。とくに東大寺が八宗兼学の寺院として有名である。
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空海。
言わずと知れた仏教界の巨星です。
功績を残した分野は語学、漢詩、書から、土木工学、鉱物学、果ては天文学・占星術に至るまで。
ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士は、こう語っています。
「アリストテレスやレオナルド・ダ・ビンチと比べても、空海の方が幅が広い。突然変異的な天才でしょう。」
が同時に空海は、行動の人でもありました。
故郷讃岐国の田を潤していた満濃池が決壊し、三年かかってもなお修築がかなわない中、人々に請われた彼はこの地へと赴きます。
そして護摩を焚き仏の加護を祈る一方でアーチ状の堤防を築いて、わずか三ヶ月で工事を完了させました。
また晩年には、宿願であった画期的な学校を開設。
庶民には学校が無縁のものであった時代に、身分にかかわらず広く門戸を開き、教師と生徒をサポートする給費制をととのえた上で、総合的内容の教育を授ける___。
こんなとんでもない学び舎を空海は作ってしまうのです。
この比類のない視点。そして、実行力。
空海が現代人をも惹きつけてやまない理由は、こうしたところにあるのかもしれません。
数多の伝説に彩られながら、空海は今も高野山奥の院に生き続けていると言われています。
さて、この空海と奈良には、実は深い縁がありました。
「大仏さま」の東大寺、その住職である別当を空海が務めていたことはご存じでしょうか。
2016年春で第222代目を数える別当職ですが、千二百年もの時をさかのぼった810年、空海は第14代別当に就任しています。
そして同じころ、自身の草庵として当時の東大寺境内に構えた堂宇。
それが空海寺の起こりであると伝えられているのです。
空海寺を地蔵堂と称していた時代の文献、1601年作成の「地蔵堂縁起」をひもといてみると___。
”弘法大師(中略)此地を蟄居之源房とし密蔵甚急にして難拝難入なるを巧匠之縁を仮て未悟の定を示し一刀三礼一華一香供養をなす”
ここでは、空海寺の本尊である地蔵菩薩石像が空海自ら造立供養したものであると伝えています。
この地蔵菩薩は古来より、「阿那地蔵」との別称で人々の信仰を集めてきました。
その名の由来については、1735年の「奈良坊目拙解」という史料の一節を引いてみましょう。
”空海寺 弘法大師以石岩屋、其内石仏之地蔵安置給、故穴之地蔵申伝候、又一説弘法大師此所にて仮名を作始め給う、故仮名之地蔵共申候由云云”
ここからは、ふたつの説を読み取ることができます。
空海が石窟をつくり、そこに自作の地蔵石像を安置したところ、そのさまがまるで穴倉の中のようだったということから「穴地蔵」と呼ばれるに至ったという説。
そして、空海が作ったとも言われているいろは仮名がここで生まれたゆえ、「仮名地蔵」という名をいただき、それが変化したという説。
ただ、いろは仮名の作者については現在も確認されていないため、後者の説の信憑性は低いと思われます。
おそらくは前者の説によるものとみて、差し支えないでしょう。
しかしながら、この空海自作とされる石窟は1734年の本堂再建の折、惜しくも失われることとなりました。
どうやら草堂および石窟石仏の座壇石を改修する際に壊されてしまったようです。
以後、右に不動明王、左に聖徳太子を従えた地蔵菩薩本尊は、秘仏として本堂堂背の内陣に納められ、今日に至ります。
大和北部八十八ヶ所霊場でもある空海寺には、この「阿那地蔵尊」の朱印を求める方々が各地よりお参りくださっています。
また、本堂前にはもう一体、矢田地蔵菩薩石像が立っています。
これはもともと矢田の金剛山寺にあったものが移され、西を向いて立っているところから「朝日地蔵」とも呼ばれているものです。
三重の基壇の上に高さ五尺八寸、幅三尺五寸の舟形の石が立てられ、そこに厚みのある地蔵立像が陽刻されています。
この石像の特徴は、左右に五体ずつ十王像が半肉に彫られていること。
十王とは冥界をつかさどる王と言われ、死後、命あるすべてのものが生前の善行悪業に対して十王の裁きをうけるとされてきました。
十王の中で最も有名な存在といえば、そう、あの閻魔王です。
そして、「生前から十王をお祀りすれば、もしかしたら死後の裁きに手心を加えてもらえるかも」と人々は考えたのでしょう。
鎌倉時代の民衆の間に十王信仰が徐々に浸透し、そのころにこの石像も造られたのであろうと思われます。
六道輪廻の中で苦しむ衆生を救済する仏、地蔵菩薩。
その光背にはちょっとこわい十王をも刻み、ともに拝む。
当時の人々が「少しでもよく生き、よく死んでいきたい」と懸命に願った姿が偲ばれるようで、なんだかほほえましいと思いませんか。
こうした石像が、しかもこれほど大きなものが残っているのは大変 めずらしく、これまでにも多くの写真家が撮影に訪れ、たびたび紹介されてきました。
また地域の方の篤い信心もいただいて、仏前に供花が日々絶えることはありません。
そして近年では境内に有縁者の墓地が数多く建立され、空海寺は由緒ある寺院墓地として次第にその名を知られるようになりました。
平城宮跡保存運動に一生をささげ、非業の死を遂げた棚田嘉十郞。文豪志賀直哉と親交の深かった彫刻家加納鉄哉。
さらには東大寺歴代の僧侶・寺族がここに眠っています。
また2003年の発掘調査では、庫裏の場所から空海寺建立以前の奈良時代に東大寺七重塔の相輪を鋳造していた跡が出土し、話題となりました。
加えて2014年の発掘調査でも、墓地予定地より東大寺造営時に地鎮具として埋納されたと思われる壺と、和同開珎などが見つかり、貴重な歴史的遺物として橿原考古学研究所に保存されています。
「大仏さま」の威光をいただき、かつては空海が闊歩していた、この地。
平成のあわただしい時代にも、季節を選ばず緑は茂り、鹿たちはのどかに憩います。
静かな寺の佇まいは志賀直哉や司馬遼太郎の作品にも描かれて、千二百年もの祈りの時を今もなお刻み続けているのです。