志賀直哉は大正14年4月、42歳のとき、知人の勧めにより京都の山科から奈良に居を移した。有名な高畑町の”志賀直哉旧居”ではなく幸町に借りた借家であった。直哉はそれまでにも、古美術の研究でたびたび奈良を訪れ、奈良の自然や落ち着いた佇まいに魅せられていた。

直哉は小説”奈良”のなかで「今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、名画の残欠が美しいやうに美しい。」と端的な文章で奈良の魅力を綴っている。この家に4年住んだのち、自らが設計した高畑の家に移り住んだ。

高畑の家には直哉を慕って武者小路実篤や小林秀雄など、多くの文化人たちが集まって交流を深める場となったため、”高畑サロン”とも呼ばれるようになる。昭和13年4月、東京に移り住むまでの9年間と、直哉は都合13年間を奈良で暮らしたのである。奈良時代に書かれた小説には、市井の人々や東大寺の僧侶など、地元の人々との交流がさかんに描かれている。

その頃、志賀直哉と深い親交のあった一人に加納鉄哉がいた。加納鉄哉は岐阜生まれの彫刻家で、奈良に住んで正倉院や法隆寺の宝物の模造など古典技法の修熟に努め、鉄筆画という独自の技法で画と彫刻を業としていた。東京美術学校創設時の彫刻家教授として名を連ねたが、水が合わずにすぐに辞めている。大正14年10月28日、81才で没して空海寺に葬られた。唯我独尊庵鉄哉。加納鉄哉が亡くなったあと、彼をモデルとした小説「蘭斎歿後」が発表された。小説の中で空海寺にある蘭斎(鉄哉)の墓に詣でるようすが描かれている。

志賀直哉「蘭斎歿後」より

空海寺までの道は静かだつた。公園には未だ人出がなく、お幾はわざと気楽に歩いて貰つた。南大門を廻り大佛殿の前の鏡ケ池の所へ来て、先年此處で月見をした事を憶ひ出した。毛氈、重詰、瓢箪、總て、蘭斎好みの風流だつたのはいいが、涼しすぎる晩で、皆あとで風邪をひいた事など二人は笑ひながら話し合つた。大佛殿の裏から正倉院に添つて行つた。

空海寺は小さな寺で、大和八十八ケ所の一つだつた。お幾が先に石段を登つて行くと、澤芳は本堂の傍の閼伽井からバケツを下げて来た。菩提樹の下に一面杉苔を植ゑ、その中に小さな石塔が建つてゐる。梵字で空風火水地、蘭斎墓と簡単に彫つてある。建てたばかりで落ちつきはないが、これは浩の設計だつた。(中略)お幾は長いこと、墓前にぬかづいていた。