500年ぶりの里帰り

 永代供養墓天平墓苑を開設してから、さまざまな新しい方とのご縁をいただきました。今回は、その中でも特に印象深いひとつを紹介させていただきます。

東京在住の友田修司氏から、藤原氏(藤原北家)である先祖の魂を故郷に返したいとのお申し出があったのは平成30年秋頃のことでした。

友田氏のご先祖は平城(奈良)の出身で、今から約500年前の1500年代初頭に、ある理由で故郷を離れ、安芸国(広島)に移られました。以来、平城(奈良)には戻ることなく、安芸国に系譜を繋いでこられたのですが、代々のご子孫は奈良出身であることを誇りに思い、望郷の念をずっとお持ちだったようです。最近になってその事実をお知りになった友田氏から、先祖を故郷で弔いたいと当墓苑に連絡をいただいたのです。

メールでのやり取りを重ね、準備がととのった令和元年5月上旬に、お骨代わりのゆかりの品を持って友田氏が来寧されました。そして、それらを天平墓苑に埋納し、実に500年ぶりの里帰りが果たされたという次第です。

友田修司氏は、奈良県ゆかりのノーベル賞学者、福井謙一氏と同じ量子化学の研究者で、東京大学名誉教授でいらっしゃいます。このたび、友田家の歴史やこれまでの経緯をまとめた一文をお寄せいただきました。奈良の歴史にまつわるロマンに思いを馳せていただければ幸いです。以下、友田氏のご寄稿です。

▼ここ数年、先祖の永代供養を先祖の故郷である奈良で行いたいと計画し、墓地を探しておりましたところ、昨年暮れに、東大寺の末寺空海寺に新しく墓苑が開かれたことを知りました。さっそく森川住職様にメールで連絡いたしましたところ、「先祖のお墓は現地に現状のままで遺し、永代供養が可能」とのありがたいお言葉をいただきました。私も高齢になり、山中にある実家の墓参りも遠路(東京在住)でままならず、二人の子供たちの墓参の負担にも配慮し、先祖の故郷奈良で、煩雑な墓移動の手続きもなく、スムーズに令和元年5月9日に空海寺での先祖の永代供養を無事終えることができました。

以下は先祖が奈良への郷愁を代々伝えて来た経緯を記し、森川住職様への感謝と敬意の言葉に変えたいと思います。

厳島神社全景

私の先祖である15代友田義正は1500年初頭に厳島神主抗争の支援部隊の一人として、平城から安芸国へ赴任し、以後子孫は現在まで安芸国で代々系譜を繋いで来ました。

安芸国佐伯郡友田庄

当時は戦国時代。大和武士と安芸守護武田氏(甲州武田氏の分家)との軍事同盟があったようで(大乗院寺社雑事記)、厳島神社神主抗争(14代厳島神主藤原(友田)興藤と周防守護大内義興との戦い)で、多くの大和武士の軍団が瀬戸内海を通じて安芸国に渡ったようです。興藤を支援する軍団は、厳島の対岸にある友田庄(ともたのしょう)に居住し厳島神領衆として戦いに備えていました。義正は平時は友田庄で、戦時にはそこから10キロ山奥の山県郡志路原庄(しじわらのしょう)で藤が丸城(藤原氏の居城)を警護していました。

安芸国山県郡志路原

友田庄は白河天皇の時代1084年頃平正盛(清盛の祖父)の時代に厳島経済を支えるために立荘された荘園で、江戸期を通じて厳島社領として厳島神社の経済を支えていました(廿日市町史)。清盛(1118-1181)の時代には友田庄に住んでいた先祖の一部が神職として重源とともに周防国の杣に移動し、12世紀末に焼失した東大寺再建のため巨木を奈良に送る仕事をしていたことが伝わっています。

厳島神主抗争においては、武田氏・尼子氏・毛利氏など藤原氏を祖にもつ武士団が興藤を支援しましたが、1541年(天文10年)興藤の自害でこの抗争は終わりました。その後、義正一族は毛利輝元の庇護の下に、中国山脈の山奥(山県郡)にある志路原庄(平安時代の領家は平清盛)で帰農し、庄屋としてたたら製鉄経営を始め明治に至りました。

奈良出身ということがよほど一族の誇りだったのでしょうか、安芸国赴任に際して、義正は子孫繁栄のため、奈良から持参した幼木を安芸国友田村に植えたというエピソードが代々伝承されています。江戸期には、志路原でのたたら製鉄経営の屋号を「奈良の木」とするなど、奈良への並々ならぬ郷愁が代々伝わっています。この屋号は「ならのき」と発音され、江戸後期には発音だけが独り歩きして、一部の後裔は「楢の木」と表記することがあったそうで、義正が植えた「ならのき=楢」とされていたようです。しかし最近、古い記録が縁戚から提示され、「ならのき=奈良の木」ということが判明しました。先祖が奈良から来たと言うことが一族の誇りだったようです。ただし、今もって「奈良の木」が具体的に何の木がわかっておりません。子孫繁栄を願って「ウラジロガシ=ドングリを多くつける常緑樹」か、武士に因んで「アスナロ」だという2つの説があり未だ結論は定着していません。

私の父は昭和10年代に大学時代を京都山科で過ごし、遺されたアルバムを見ると、奈良へも頻繁に出かけたようで、新婚旅行は京都→奈良→白浜温泉でした。古都奈良が好きだったようで、私の兄に「久米司」という名前を付けています。供養当日、森川ご住職様から、ご住職様のご先祖が久米寺のご住職だったとお聞きし、また「久米寺は空海が大日経を感得した寺」というお話を伺い、2歳で亡くなった兄久米司と空海寺とのご縁を感じています。兄が空海寺に導いてくれたかもしれないと思うと感涙の喜びです。また、平安時代後期に東大寺再建のため、重源とともに周防の杣に赴いたわが先祖も東大寺末寺としての空海寺とのご縁を繋いでくれたのかもしれません。

私が空海寺に先祖の供養を託すことに決めたのは、先祖が奈良出身(奈良市都祁友田)ということもありますが、最終的には森川隆行ご住職様のお人柄が決断を促しました。前以てお会いすることもなく、メールでの交信だけで決めるというのは少々勇気がいるところです。本来ならご住職に直接お会いして決めるべきところ、空海寺ホームページでのご住職のお言葉とメールでのやり取りにおける人間としての優しさと教養の深さを感じたこと、および「実家の墓はそのままでよい」という寛容なお言葉で最終決断に至りました。最後のお言葉は困っている私への「救いのお言葉」でした。多くの人々が地方の実家の墓守で悩んでいます。墓石や遺骨に固執しない供養が仏教本来のやり方とのお考えがよくわかりました。仏様がわが身を森の生物たちに与えた逸話を思えば納得できます。日本人特有の遺骨信仰に捉われない未来志向の供養方式ということでしょうか。

万葉集から採択されたという「令和=うるわしき大和」の時代を迎え、日本国民の間に奈良への関心が一層高まりつつあります。大和は日本国建国の地であり、日本国民のふるさとです。我が国を代表する真言密教の僧侶である弘法大師さまゆかりの空海寺にて永代供養をいただき、森川ご住職様には感謝の至りです。

最近の研究によると、空海の生まれ育ちは(これまで言われて来た)讃岐ではなく、畿内に生まれ育ち、一族の多くは高い位階の官人・学者・学僧・高僧だったということです(やまとみちの会、東京講演、平成30年7月21日(土)、『空海 ― 若き日の実像を求めて』、高野山大学名誉教授、武内孝善)。昨今、司馬遼太郎などによると、空海は讃岐生まれで、生家佐伯直氏は斜陽の一族だったと言われてきましたが、実際には讃岐国を賜ったきわめて裕福な畿内の豪族(船を所有して交易を行っていた)で、母方阿刀氏は学者の家系で、一族からは天皇家の教育係・大学者など奈良時代を代表する多くの高僧・学僧が出ており、手広く交易活動をおこなっていました。空海の両親は交易活動を通じて出会い、婚姻関係を結ぶに至ったと考えられています。空海が遣唐使として中国に渡ったのも、実家の交易事業で中国に関する多くの情報を得、在日中国人に中国語を習っていたのでしょう。空海がかつて東大寺の別当であったこと、嵯峨天皇に近侍し、高野山金剛峯寺を建立したことなどの超人的な業績を考えると、武内孝善氏の新説は納得がいくものです。この新説によって、これまでとは大きく異なる空海の実像への関心もますます高まりつつあります。

最後に空海寺を訪ねた私の個人的な印象を述べて終わります。空海寺は東大寺と正倉院の西隣にあり、木々が薫る森の中、墓地は歴代東大寺別当が眠る立派なお墓の隣接地にあり、環境的にも歴史的にもこの上ない素晴らしいところです。近鉄奈良駅から徒歩10分余、タクシーでワンメーターの便利な立地にあるのも、供養当日初めて知りました。GoogleMapでは確認していたのですが、予期せぬ環境の素晴らしさに驚いた次第です。供養を終え、帰路は徒歩でゆっくり正倉院→東大寺をまわり、人懐こい鹿たちと触れ合いながら実家に急ぎました。日本史の授業で学んだあの有名な東大寺・正倉院のそばにある著名な高僧弘法大師空海の別荘地で先祖たちが眠っていると思うだけで安堵と幸福を覚えます。かつて東大寺の境内で拾った藤の種が昨年東京の我が家の庭で芽吹き成長しています。家族一同空海寺に眠る先祖の記念として大切に育てます。

義正は、今回やっと懐かしの故郷大和に帰ることができ大変喜んでいることと思います。森川ご住職様を通じて受けたこの幸せは私の生涯の宝物として永遠に心に深く刻まれることと思います。ありがとうございました。

空海寺のますますのご発展を祈ります。末筆ながら森川ご住職様のご健勝を祈念致します。

合 掌

                    (東京都杉並区在住)  友田修司

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