8月24日(土)例年の大施餓鬼法要を開催いたしました。多くの檀信徒の皆様にお参りいただきお墓参りも賑わいました。

お盆には故郷に帰省をされて、ご親族とひとときを過ごされた方も多かったと思います。本来、お盆休みとは単なる休暇ではなく、里帰りされたご先祖様と一緒に過ごす期間とされています。ところで、子孫のもとに里帰りできるご先祖様は良いとして、里帰りのできない霊はどうしたら良いのでしょう。里帰りするところもなく、その存在さえも忘れられ、満足な供養も受けていない霊。このような霊は、伝統的に無縁さんと呼ばれていますが、この存在が餓鬼なのです。心あるご家庭は、そんな餓鬼のために、縁側や庭にお供え物をして供養をしています。これがまさしく施餓鬼のこころと言えましょう。

餓鬼とは飢えた霊をさします。のどが渇いたときに飲む水の清新さ。お腹がペコペコのときに口にする食べ物の美味しさは、言葉では言い表せないほどのものです。餓鬼に施す功徳の力は甚大と言われ、その大きな功徳を餓鬼のみならず、他の霊の供養に廻らせることを添施餓鬼といいます。現在多くのお寺で行われている塔婆供養の施餓鬼法要はこの趣旨で開莚されているものです。大施餓鬼法要では多くの僧侶に御出仕いただき、ガンジス川の砂の数にもたとえられる無数の餓鬼を集め、施主さんからいただいた供物と、自らの食物を取り分けてお経の力で施します。つまり、大施餓鬼法要とは有縁無縁を問わず、すべての霊の救済を目的とした仏教の慈悲を実践する法要ということができます。

あるお経に「慳貪(けんどん)の者、餓鬼道に堕つ」と記されているように、人としてあるべきではない、正反対の在り方を生きた者たちは、死後餓鬼道へと送られていきました。しかしながら、慳貪とは欲深く物惜みすること。これは誰もが思い当たる、私たちの身近な一面でもあります。つまり餓鬼とは欲望が充足されることなく、いつも飢餓状態のすさんだ心の状態を表しているといえましょう。大施餓鬼会法要は、餓鬼やご先祖への供養を通じて、わたしたち自身が持つ餓鬼の心を自省する法会でもあります。

8月の朔日から始まったお盆の棚行(お参り)と、一年で一番忙しいこの大施餓鬼法要を無事終えて、やっと一息つきました。昨日あたりから気温もいくぶんか下がり、秋の気配が感じられるようになりましたが、身体はもうクタクタです。