東大寺修二会(お水取り)満行お礼

空海寺徒弟 森川真雅

752年(天平勝宝4年)より一度も途切れることなく続けられ、今年で1274回目を迎えた東大寺修二会。私は昨年に続いて今年も練行衆として参籠し、先日つつがなく満行いたしました。私にとって2回目となった今年は、曽祖父が森川家から初めて参籠した年からちょうど百年という節目でもありました。そのためもあったのでしょうか、今回は昨年以上に意気込んで行に打ち込むことができたように感じています。

令和7年3月12日上堂

ただ、厳格な規律の下での会中の生活は普段の生活からは遠くかけはなれたもので、二度目とはいえなかなか大変な毎日でした。というのも練行衆は本行中、睡眠時間も不規則になり、飲食にも多くの制約があります。また本行における各練行衆の動きは、非常に複雑な構成のシナリオによってすべて決められています。よって各自が「次に自分は何をすべきか」を常に確認しながら行に臨んでいかないと、行全体に支障をきたしかねません。そんな張りつめた緊張感の中、眠気や空腹、寒さや疲労と戦いながら一心に拝み続けました。

修二会には、国家の安泰や作物の豊穣を祈願する法会として人々から信仰を集めてきた歴史があります。人々のために祈るということは、まず自分の我を捨て去ることがなによりも重要です。しかしながら、「我を捨てるにはどうしたらいいのだろう。」ここがずっと私にはわからないところでした。

が今回、日々のルーティンを行としてこなしていく中で、「仏さまに願いごとを叶えていただくことは大変なことだな」という思いがたびたび頭をよぎりました。そして、「まずは自分自身を厳しい環境におく。そしてそこから祈りをささげることによって、仏さまが願いを聞き入れてくださるということではないのだろうか」と自問自答するにいたりました。ただただ無我夢中で突っ走っていた昨年とちがって、今年は少し余裕があったのかもしれません。

そんなある時、ふと思い出したことばがありました。それは私が高野山で僧侶になるための修行をしていた際、教官から言われたことばです。

「修行とはひたすらに同じことの繰り返しなんや。」

高野山での修行生活も日夜決まったルーティンで動いていたのですが、そこに一切我を出すことはできません。淡々とやるべきことをこなすのみです。そこに終わりはなく、とにかく同じことをひたすら続ける。そこでようやく新たに気づくことがあるが、それは自分自身が変わっているということであり、そこからまた新たな修行がはじまるのだ。このように理解していた教官のことばが、まさに練行衆としての在り方を言い表していると感じたのです。

籠松明

現在は「変わってナンボ、楽してナンボ」というように、変化や効率化を重んじる風潮があります。しかし修二会について言うならば、それは決して許されません。細々と決まったとおりの作法をひたすら繰り返し、ひたすら祈る。それを奈良時代からずっと引き継いで続けてきたものがまさに修二会なのです。先人が残してきたものを次世代へとつないでいく。この視点は、時代に合わせて柔軟に変化することと同様に、私たちが失ってはならない大切なものではないでしょうか。またそれを見事に体現し続けているところが、そのまま東大寺の偉大さでもあると私は考えています。

今年も多くの方々のお力添えをいただいて、貴重な経験を積むことができました。あらためて心より御礼申し上げます。

合掌

 

 

 

 

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