大黒日記その17  一皿のカレー

このところ、スパイス料理にはまっている。
クミン、コリアンダー、ターメリックにカルダモン。
ガラスの小瓶から慎重にスプーンに計り取り、混ぜ合わせて相性を確かめる。
遠い昔にやった化学の実験のようで、これがなかなか面白い。
今はお気に入りの味と香りを探して、試作を楽しんでいる最中だ。

スパイスを摂ると身体がポカポカしてきて、生来冷え性の私にはありがたい。
そして何より、とても美味しい。
家族と食べるだけではもったいないほどなので、先日、友人と作ってみることにした。
主婦歴20数年の3人が下ごしらえした材料を持ち寄れば、立派なスパイスカレーランチもあっという間に出来上がる。
手料理に舌鼓を打ちながらたっぷりおしゃべりし、パパッと片付けて、最後は「あ~、楽しかった」
心まであたたまる、とてもいい時間だった。

ところでカレーといえば、北インドにある黄金寺院のカレーが素晴らしい。
パキスタン国境の街にあるシーク教総本山のここでは、毎日豆カレーが無料で提供されている。
地元民でも巡礼者でも、誰が食べてもかまわない。
その数なんと十万人。
サバダールと呼ばれる300人もの奉仕者が、厖大な量の作業を担っているのだという。

その様子をつぶさに撮ったドキュメンタリー映画が、日本でも4年前に公開された。
床に座り込んで玉ねぎの皮をむく人。
そのそばの、同じ床の上で、ひたすら玉ねぎを刻む人。
浴槽ほどもある大きな鍋でカレーを煮込む人もいる。
足の悪いおじいさんは入り口でプレートを手渡し、バケツに入ったカレーやヨーグルトがそこに柄杓で注がれていく。
そして食事が終われば床を水で洗い流し、浄め、また次の5000人を迎え入れ——。
一見混沌とした雰囲気の中、それぞれが何かの役割を果たしながら、この巨大食堂は見事に成りたっているのだった。

黄金寺院が建立されたのは、十六世紀半ばのこと。
いまだに階級差別が残るインドにあって、「宗教、カースト、人種、性別、社会的地位に関わりなく、全てのひとは平等である」というシーク教の教えのもと、500年以上にわたって食堂が運営されてきたという。
「みんなで作って、一緒に食べる」
このたった一行の営みが、インドの地ではどれほど大きな意味を持ち、どれほど多くの人々を救ってきたことか。
そして「出来る働きをし、お腹も心も満たされる」——こんな場面が、今の私たちの日常に果たしてどれぐらいあるのだろう。つい、そんなことを考える。
コンビニでは一人分のお総菜がいつでも買える、便利な時代になった。
が、その一方で「孤食」という言葉が生まれ、こども食堂の活動が全国各地に広がっている現実がある。
それは裏返せば、もともとごはんは誰かと一緒に食べるもの、ということなのだろう。

黄金寺院に集ってカレーを食べていた、お年寄りから幼児までの人々。
スクリーンに映った人々は誰もが、あたりまえの顔をしてそこにいた。
生まれる前からずっとある、誰もが受け入れられる場所。
いつでもごはんを誰かと一緒に、食べることが出来る場所。
加えて、すぐそばにある大いなる存在のまなざしを誰もが感じているからだろうか。
静かな安らぎを漂わせながら、そこは人々でにぎわっていた。
こうしている今も、たくさんの人がカレーを作り、カレーを食べ、片付けて帰っているのだろう。
けれど人々が受け取っているものは、きっと一皿のカレーだけではない。

今やスパイスの香りは、「幸せってシンプルなものなんだな」と私に思い出させてくれる気付け薬になった。
これでは当分、スパイスから離れられそうにない。
こうして家族を巻き込んで、私のスパイス・ロードはまだまだ続く。

追記
私たちの「作って食べてしゃべる会」は、今後も随時開催する予定です。
興味を持たれた方は、どうぞメールにてご連絡くださいね。