鬼のもだえ

びしゃもんの おもきかかとに まろびふす おにのもだえも ちとせへにけむ (毘沙門の重きかかとに 転び伏す 鬼の悶えも 千年経にけむ)

これは、会津八一が東大寺法華堂(三月堂)で詠んだ歌である。毎月、仏事でお伺いするお宅の仏間に扁額が飾られていて、この歌の存在をそこで初めて知った。書いたのはあの棟方志功で、全文万葉仮名で書かれている。一文字一文字が大きく、絵を描くような太いタッチだ。よく見ると「年」は勢いで書いたのか横線が一本多い。そんなことはお構いなしに、内面からほとばしる情熱をそのままぶつけた一作だ。

昭和21年3月31日佳夜と日付が記されている。終戦間もない頃のことで、食べるものにも不自由な時代であったろうに、そんなことは微塵も感じさせない生命力にあふれた作品である。棟方がベネチア国際ビエンナーレで版画部門の最高賞を取り、一躍世界の美術界に名をはせたのが昭和31年のことだから、その10年も前で一般的にはまだまだ無名の時代。

このお宅の御祖父(故人)は、かつてある有名百貨店の美術部長をしておられた。当時から棟方と深い親交をもたれていて、奈良を棟方が訪れたときには身の回りのお世話をされたという。風景を写生するのに、息子さんが自転車の荷台に棟方をのせて奈良の街を走り回った。その息子さんも、今では80歳を超えた老紳士である。夜、上機嫌で会津八一の短歌を揮毫する棟方の姿が「佳夜」という言葉から想像できる。

私は会津八一の短歌が好きではあるが、無知無学のために所々に分らない言葉に出くわす。今回、このブログを書くに当たって「まろびふす」が「転ぶ伏す」であることを初めて知った。仏教の守護神、毘沙門天のかかとに抑え込まれ転び伏した邪鬼。双方に流れた等しく膨大な年月。毘沙門天の踵もゆるみ、邪鬼の「もうええじゃないか・・」という呟きが聞こえてきそうな、なんとユーモラスで味わい深い一首である。

邪鬼とは異教者とも煩悩とも解釈されるが、異教者であっても煩悩であっても、自らの教えの中に含めとる懐の深さを仏教は持つ。邪鬼の正体は、邪鬼の役割を演じている仏さまであるのかも知れない。鬼が受難の節分に、ふとこの歌を思い出した。