棚田嘉十郎氏(その1)

近鉄電車で大阪から奈良に帰るとき、生駒のトンネルを抜けると周りの景色が一変する。すこしスモッグのかかった、大阪のビル街を遠望しながら走っていた電車が、トンネルを抜けると奈良の山間部に走り出る。静かな住宅街の落ち着いた雰囲気に、奈良に帰ってきたと、心の安らぎを覚える瞬間である。これは、奈良にお住まいの方なら、実感していただけるだろう。

学園前駅や大和西大寺駅で、降車する人も多くなり、電車のハコはまばらになる。そして、終点の奈良駅までの約5~6分間、奈良時代のかつての都の跡、平城宮跡を電車は走る。保存のため、一帯が国の史跡に指定されていて土地の利用はできない。回りには何もなく、見た目には、広い草原が広がるばかりだが、春には桜並木が美しい。「ああ、帰ってきた」。ホッとした想いと共に、降り支度をするひとときになる。

先日、遺跡保存の観点から、平城宮跡内の電車の路線を、移動させる計画があることを知った。しかし、移動させるにしても、平城宮跡周辺一帯が、奈良時代の遺跡の宝庫である。近鉄路線の地下化が検討されているらしいが、発掘ともなれば莫大な費用を要する。その上、重要な遺跡が発見されれば、計画そのものも再検討されかねない。平城宮跡の外側の地域であっても、大型商業施設の建設が、貴重な遺跡の発見で大幅な設計変更を余儀なくされた先例もある。遺跡の中を、電車が走ることの是非については、テレビのインタビューでは容認派が多かった。私もその一人である。というよりも、子供の頃から見慣れた風景なので、むしろ愛着があるのだ。

同じ番組で、平城宮跡内の近鉄の路線が直線ではなく、少し曲がっていることが指摘された。理由は、重要な遺跡をさけるためではないかとされた。平城宮跡を横切っているのに、開業当時(大正3年)に遺跡保存の意識があったことが、少し驚きを持って伝えられていた。近鉄の路線を曲げた人物。それは、当時、平城宮跡保存の重要性を訴え、その尋常でない行動力と熱意から大極殿狂人と呼称されていた、あの人しかいないだろう。(続)

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