大黒日記その7 まゆみちゃん
子どもの悲しいニュースを耳にするたび、ある女の子をふっと思い出す。
ずいぶん前にほんの少しすれ違っただけの、小さな女の子のことを———。
その日は夕方から、大阪へとドライブに出かけた。
まだイオンのような巨大ショッピングセンターもない頃で、堺のこじんまりとしたモールに入り、レストラン街で夫と私、娘の3人で食事をした。
飲食店がぐるりと囲むような形で並び、中にちょっとした広場があった。そしてその中央には、子どもが喜びそうな大きなジャングルジム。
車の中でぐっすり眠っていた娘は、眠気はどこへやらと駆け出していく。
平日の夜9時。広場には私たちの他にひとけはない。そう見えた。
が、実はジャングルジムにひとりだけ、小さな先客がいたのだった。
いかにも慣れた様子で、軽やかにジャングルジムを上っては下りる女の子。
保護者はトイレにでも行ってるのだろう、と最初は気にもとめていなかった。
が、時間が経っても一向に現れる気配がない。
と、かわいい声が私の耳に入ってきた。
「この子、まだパンパースやのん?」
ジャングルジムの下の方でもそもそ苦戦している娘のことが気になったのか、女の子が話しかけてきたのだ。
「うん、まだ2歳やから、出かける時は紙オムツはいてるよ。」
「ふーん」
そこから、女の子とのやりとりが始まった。
「お家の人は、一緒じゃないの?」
「うん、私いっつもひとりで遊んでるねん」
「夜ひとりで遊んでて、お家の人は心配しはらへん?」
「家にはだれもいてへんもん」
そして人懐っこい女の子は、
「私、〇〇〇まゆみ。5歳。パチンコ屋さんの上に住んでるねん。」とも教えてくれた。
帰り際、「まゆみちゃん、気をつけて帰ってね。」と声をかけると、女の子は「バイバ~イ」と元気に手を振ってくれた。
が、帰りながらもやはり気がかりで、そっと振り返ってみた私。
女の子がじっと私たちの後ろ姿を見送っているかもしれない。なんとなくそんな気がしたのだ。
だが、全くちがっていた。
目に入ったのは、さっきまでと変わらず、ジャングルジムをすいすいと泳ぐ小さな背中、だった。
後ろ姿を見ているのは、まゆみちゃんではなく、私の方だった。
でも、その姿にちょっとだけ安堵したことを、今も覚えている。
あれから20年ほどが経ち、子どもを取り巻く世界から、どんどん優しさが喪われるばかりの今。
だからついつい、記憶を掘り起こしてしまうのだろう。
もし、まゆみちゃんがあんなに元気な様子じゃなかったら、
もし、まゆみちゃんがあの時、じっと私たちを見つめていたとしたら、
その時、私には何かできたんだろうか、と。
人は見たいものしか見ていない、という。
それは、見ようと意識しなければ見えないものがあるのだ、ということ。
「どうしたの?」
「だいじょうぶ?」
こんなささやかなひとことを待っている子どもが、もしかしたらすぐ近くにいるのかもしれない。
幸いなことに、「おせっかいおばちゃん」と言われることをためらうような年ではなくなった。
そういえば、いつからか私のカバンの中には「アメちゃん」がいつも入っている。
もう立派な関西のおばちゃんだ。
そして人と人との距離を埋めることができるのは、案外おばちゃんのおせっかいだったりするんじゃないか———、そう思ったりもしている。
もし今、まゆみちゃんと同じような場面で小さな子どもに出会ったら、今度はすぐに声をかける。そう決めている。
子どもにはやはり、暖かい部屋の中で眠る夜を過ごしてほしいから。
子どもが生きる世界を優しいものにしていく責任が、大人たちにはあると思うから。
そして、まゆみちゃん。
彼女はどこで、どうしているんだろう。
どこかの空の下、今もまゆみちゃんが元気に暮らしていてくれるといい。おばちゃんはそう願っている。