境内の掃き掃除をしていると、お墓参りの方とよくお会いする。

三世代でにぎやかに来られる方々や、ひとりでみえる方。

ご挨拶だけのこともあれば、掃除の手を止めてひとときおしゃべりに興じることもあり、日々さまざまなお参りの形に触れさせていただいている。

 

 

ある冬の朝。時刻は七時過ぎ。スーツ姿の青年が墓地へと急ぎ足で向かっていく。

戻ってくると今度は本堂の前で合掌。それも格好だけのものではなく、こうべを垂れて数十秒ほど。

そして私と会釈を交わした後、また小走りで山門を出て行った。

「今日は大事なプレゼンか試験でもあるのかな。うまくいきますように、とお願いに来たんだろうな。」

気ままな空想を巡らせながら、見送った後ろ姿。

慌ただしい中をお墓に立ち寄り、駆けていく若い背中は、朝の空気に似て、とてもさわやかだった。

 

 

また、初老の男性Aさんがみえた真夏のある日のこと。

あまりの暑さに、私は掃除も早々にひきあげた。が、一時間以上経ってもまだ、Aさんの車は駐車場にある。

「もしかして熱中症かも」と心配になった私は、様子見のためお墓に行ってみることにした。

が、幸いにもそこで見たのは、膝をつき、頭からタオルをかけ、墓前で合掌しているAさんの姿。

その光景にホッとして、私はそのままお墓を離れた。

長く母ひとり子ひとりで暮らしてこられたAさん。

実直で、いつもお母さんを気にかけておられたことを、その時思い出していた。

 

 

そして、つい先日お会いしたBさんは、齢九十ほどの女性。ご主人を二年前に亡くされた。

自宅から徒歩で四十分余りを、「運動のために」と毎月歩いてみえている。

今回の装いは、パンツスーツに白い花のブローチ。口紅とほお紅がうっすらと美しい。

柔らかい物腰と語り口。まっすぐな背筋。そして杖も持たずゆっくりと、また歩いて帰っていかれた。

なんとたおやかな、見事なお参りだろう。

さぞかしご主人もよろこんでいらっしゃるにちがいない。

Bさんにお会いするたび、そう思う。

 

 

心に残るこうした記憶を綴りながら感じるのは、お墓には「場の力」がある、ということだ。

そこに来れば、亡き有縁の方々に自ずと向き合い、語りかけることができる。それが、お墓という場所だろう。

その上ありがたいことに、お墓は一方通行でいい。

うれしい報告はもちろん、愚痴や泣き言をいくら吐き出しても許される。

何を言おうが、ただ静かに聞いてくれるし、いつまでも佇んでいてくれる。

そしてやがて、誰もが来た時より軽くなった心で帰っていく。

お墓とは、そういう場所なのだ。

 

 

たまたま時間があったから。

叶えたい望みがあるから。

辛くて辛くてどうしようもないから——。

こんな理由で訪れてもいい。

それぞれのやり方で訪れたらいい。

「不寛容の時代」と言われて久しい現代、お墓ほど寛容な場所は他にはないんじゃないか、とさえ思う。

それはおそらく、作法云々よりも、この場に来ることそのものが大切だから、だろう。

そしてここに来ることで、自分の心が整理されるということを、無意識のうちに誰もが感じている。だからこんな時代でも、折々に人はお墓へと足を運ぶのだ。

 

 

ウグイスがさえずる晴天の今日も、幾人もの方々がお参りにみえていた。

お墓参りは午前のうちに、とよく聞くが、日が長い季節には夕刻に訪れる方もいる。

これからも、それぞれの方がそれぞれの作法で。

さまざまな理由で、さまざまな時間に。

 

 

それでもお墓は、変わらない。

同じ場所でずっと、誰かが来るのを待ってくれている。